Netflixドラマ『阿修羅のごとく』は、1979年の名作を是枝裕和監督が現代的に再構築した注目作です。
この記事では、ドラマ【阿修羅のごとく】 の四姉妹が抱える“心の中の阿修羅”を通じて、人間の弱さと強さ、そして感情の深淵に迫ります。
なぜ彼女たちは怒りや悲しみに引き裂かれながらも、前を向いて生きようとするのか?その意味を考察していきます。
この記事を読むとわかること
- 『阿修羅のごとく』が描く“阿修羅”の意味
- 四姉妹それぞれの感情と葛藤の正体
- 怒りや孤独と共に生きるという考え方
Contents
【阿修羅のごとく】を考察!4姉妹が抱える“阿修羅”とは
Netflix版『阿修羅のごとく』では、4姉妹それぞれが心の奥に“阿修羅”を抱えて生きている姿が描かれています。
ここでいう阿修羅とは、怒りや嫉妬といった負の感情であると同時に、生きる原動力にもなり得る人間の本質的な側面です。
四姉妹の“阿修羅”をひも解くことで、このドラマが描く人間の複雑な感情の構造が見えてきます。
綱子の「孤独」と「愛されたい欲望」
長女・綱子は表面上は優雅で格式ある生け花の先生として振る舞っていますが、内面には深い孤独と「誰かに必要とされたい」という渇望を抱えています。
未亡人である彼女が不倫に走る背景には、愛されたいという欲求とそれを恥じる自意識のせめぎ合いがあるのです。
巻子の「嫉妬」と「家庭に縛られた怒り」
次女・巻子は主婦として“平穏な家庭”を保ち続けようとしますが、内心では夫への不信感や自分だけが我慢していることへの怒りが渦巻いています。
外では笑顔を見せ、内では叫びたくなるほどの怒り――この表裏の感情が彼女の中の阿修羅を生み出しているのです。
滝子の「プライド」と「孤高の中の劣等感」
三女・滝子は独身を貫き、自立して生きる強い女性として描かれています。
しかし彼女の“強さ”は防御でもあり、誰にも甘えられないことへの孤独や劣等感が内に潜んでいます。
その反動として、時折冷たくなる彼女の態度には、誰かにわかってほしいという叫びが見え隠れします。
咲子の「虚栄心」と「幸福への執着」
四女・咲子は自由奔放で恋多き女性のように見えますが、その裏には「幸せそうに見えること」にこだわる虚栄心があります。
本当に欲しいものには手が届かず、手に入るものにしがみついてしまう。
欲望と自己肯定感の歪みが彼女の中で渦を巻いているのです。
“阿修羅”は悪ではないという視点
『阿修羅のごとく』というタイトルが示す通り、本作の根底には怒り・嫉妬・執着といった“阿修羅”的な感情が流れています。
しかし、これらの感情は決して“悪”ではなく、人が人らしく生きるためのエネルギーでもあるのです。
視点を変えることで、“阿修羅”の持つ本質的な意味が見えてきます。
怒りや憎しみは“強さ”に変わる感情
綱子や咲子が見せたような怒りや悲しみは、一歩間違えば破壊的な行動にもなり得ます。
しかし、それを昇華させることで、自分の人生を変える“強さ”に変えることができます。
感情を押し殺すのではなく、向き合い、言葉にし、行動に移す。
その姿勢こそが、人間らしく生きるための力だとドラマは語っています。
阿修羅と共に生きる“共存”という選択
最終的に四姉妹は、怒りや憎しみを完全に消し去るのではなく、それらを抱えたまま生きることを選びます。
感情と共存することは、感情に支配されることではなく、それを理解し受け入れること。
“阿修羅を心に飼っている”という台詞のように、人間の中にある怒りや葛藤を否定しないというメッセージが、強く伝わってきます。
【阿修羅のごとく】 考察のまとめ
『阿修羅のごとく』は、表面的には家族の崩壊や女性たちの不満、怒りを描いたドラマに見えます。
しかしその実、人間の内面に潜む“感情の渦”とどう向き合うかを描いた深い作品です。
怒り、嫉妬、孤独、虚栄心――どれも人間なら誰もが抱く感情。
それらを“阿修羅”と見立てたことで、ドラマは私たち自身にも問いかけてきます。
「あなたの中の阿修羅は、今どこにいますか?」
感情を否定せず、共に生きることの大切さを教えてくれる作品でした。
この記事のまとめ
- 四姉妹それぞれが心に“阿修羅”を抱えている
- 怒りや嫉妬など負の感情が物語の軸
- 感情を否定せず共に生きる姿勢が描かれる
- “阿修羅”は人間の強さの源でもある
- ドラマ全体で感情との向き合い方を問いかける
